2013年の初冬のこと。
母が『前頭側頭葉変性症*1(前頭側頭型認知症・ピック病)』だと診断されます。
それは同時に、私が介護問題に直面した瞬間でもありました。
しかも当時、私はまだ自分自身のADHDに全く気がついていなかったのです。
そして、今回。
母に介護が必要なことを受け、実際に私たちがどのような行動を起こしたのか?
その部分に触れていこうと思います。
親族会議!
叔母たちは母の介護について親族会議を開くべく、関東在住の弟を呼び寄せました。
もちろん、その親族会議には私たち夫婦も含まれています。
こうして母の介護に関係する親族が集まり、話し合いの場が設けられたのでした。
一軒家に一人暮らしの母。
まずは、母にすぐ介護が必要な状態なのかを確認する必要がありました。
各自が見た母の行動について意見交換をし、情報の共有を図ります。
- 介護とまでは行かずとも、サポートが必要だと感じた部分の役割分担。
- 母が通うことになった病院への付き添い。
- 介護を行っていく上で、必要な手続きやサービスの検討と手配。
この親族会議で以上の3点が決まり、私が介護のキーパーソンとなったのでした。
そして始まった母の介護
母の介護のスタートは2週間に一度、病院への付き添いからでした。
その病院は母が歩いて行ける場所にあります。
病院で待ち合わせをし、私は夫に車で送ってもらうか自転車で通いました。
介護に関する手続きも色々と発生しましたが、すぐに行った内容は以下となります。
- 自立支援医療の申請(精神通院医療)
- 要介護認定の申請
- ケアマネージャーの依頼
介護(サポート)の役割分担において、私は金銭管理担当でした。
ですが、私も金銭管理は苦手!
母の介護に夫もしっかり巻き込み、家計を緊縮するところから始めました。
支出を年金内に抑えるべく、削れそうな箇所を母と交渉。
が、なかなか説得に応じない母。
改めて介護の難しさを痛感する私…でした。
↑ 認知症全般(前頭側頭葉変性症も含め)について、わかりやすく書かれた本です。
突然の介護に…
突然やってきた母の介護に心構えもないまま向き合うこととなった私。
『ピック病』に関しての情報も少なく、これから母はどうなっていくのだろう?
そんなことを考えながら、母の症状を見て対処をすることしかできませんでした。
叔母たちからの協力も得られましたが、実際に動けるのは私たち夫婦だけ。
“私が母の介護を”ではなく、“夫と一緒に母の介護を”という構図になっていました。
これが後々、別の問題に繋がるのですが…。
介護についての大きな不安要素は、もう一つありました。
母の病気がわかった時、私の娘は1歳になったばかり。
夫と2人で育児を頑張って来た矢先の出来事だったのです。
その後、娘の保育園は決まったものの、仕事に集中できる環境ではありません。
様々なことが思っていたようにできず、気持ちばかりが焦ります。
結構早い段階で愚痴や不安を口にしだし、夫にもかなり迷惑を掛けました。
自身のADHDに気付いていない私は、母の介護が上手にできないどころか、
やりたくないと思っている自分に対し、常に心がモヤモヤした状態でした。
アラフォーの私に一気に訪れた介護・育児、そして…。
そうしている間にも、母の病気は日に日に進行していくのでした。
↓ 次の記事はこちら。
◆ブログランキングに参加しています
*1:大脳の前頭葉と側頭葉の委縮が目立つ脳疾患で、主に若年期(40歳〜64歳)に発症。2015年に厚生労働省の難病に指定された。
参考:難病情報センター | 前頭側頭葉変性症(指定難病127)